アルベルト・マッティア・マルティーニ
「静物画」と云うジャンルが発生した歴史を振り返ると、マルコ・スキファーノの写真作品のエッセンスが理解出来る。1650年のオランダで、初めて”stilleven”と云う用語が用いられた。その1世紀前にヴァサーリ(Giorgio Vasari)が ”cose naturali” (自然物画)と呼んでいた題材が、一つのジャンルとして確立した。が、イタリア語でこのジャンルを ”natura morta” (原意は「死んだ自然」)と呼び始めたのはその後の事だ。
”still”な自然、沈黙した自然は受動的で不動だが、内側に揺れ動くものを秘めている。スキファーノの写真作品にはそれが我々の目を射る。その視線も構図もフランドル派の画家のものだ。引用法によってナマの素材にヴェールがかけられ、舞台装置家がやるような演出が加えられ、ディテールへの慎重な配慮と照明の効果によって、一瞬の中に長い時間の経過が封じ込まれる。
セットとなる彼のアトリエには動物、爬虫類、ネコ科、魚類、猛禽類、植物などが集められ、様々なオブジェとつき合わされて、文脈を与えられる。するとその小宇宙はもうフランドル派と云うよりも、シュールレアリズムの夢の世界だ。そこでは夢とファンタジーと無意識が見る人の意識と絡み合って遊ぶ。
スキファーノはカメラの目を通して、沈黙した存在たちと空間との関係を探索する。リアルなものが幻覚的に見え、概念的なイメージがリアルに見える瞬間を求めて。誰も予想しなかったものが突然に立ち現れて、生きる空間を貪るかに見える。感情も、獣の目つきも、羽ばたきも、屍体も、感傷的な気分も、苦痛も、一瞬の中に凍結される。
虚妄なる物たちの虚妄。全てはうつろう。全ては敗北して終焉する。スキファーノが我々の顔に投げつけるのはこんな警告なのだろうか?そこには遠慮も容赦もない。人生は確かに儚く、無常だ。このメッセージとは裏腹に、スキファーノは見る者に先入観を棄てるよう、感覚を澄まして創造当時の宇宙に旅するようにと誘う。
それは束の間の命が美や歴史や技巧と会話する所、自然が死と親しく交わる所だ。スキファーノは記憶を繋ぐ糸としての時間について思いを巡らす。静物画の中に創造の意味と原理を探る。それは原初の物たちが我々の知性と感覚に向かって語りかける詩だ。
アルベルト・マッティア・マルティーニ
マルコ・メネグッツォ
マルコ・スキファーノは未だ27才の若者だが、ここ何年か『絶滅、エクスティンクション』と題した連作を通じて彼がやっている仕事は、美術史、特に静物画の歴史を考えさせる。
フランドル派からナポリ派、神秘に満ちたフランシスコ・デ・スルバランなど、過去の静物画の歴史の中にその祖先を辿る、文化史の旅に私たちを誘う。
しかし本当の親類は現代に見つかる。27才のアーティストは静物画、それも死に極めて近い生の姿を求めて、写真撮影のセットを組む。絵画ならモデルの蛇やハチドリはそこにジッとしている必要はないが、写真はそうはいかない。
彼は技巧の完成に賭けるタイプかと言えばそうではない。勿論彼の作品には相当の技巧が必要とされるが、マルコ・スキファーノが情熱を傾けるのは、作品を見た時の「驚き」と「戸惑い」の感覚である。幼児が世界を見た時のような発見の不安だ。
美術史をいくら引用しても彼のこだわりは理解出来ない。プライヴェートな心理を分析しても、一通りの解釈に終わる。彼の父親マリオ・シキファーノの大胆に投げ出す気性と正反対に彼は精密さを選んだ、とか。
人生の速度と比べた時の芸術の「遅さ」にマルコはこだわっているのではないか、と私には思われる。彼の日常の振る舞いにはダンディー風の気さくさが目立つのと対照的にだ。
マルコにとって芸術の場は一種の記念写真のように、構図を考えて構成されたものになり、見る側はそれを多言語的に読み解くことを要求される。例えば『トロンプ・ルイユ(騙し絵) 』と題された連作の中の一つ『ミッキー』では、鼠の屍骸が並べられてミッキー・マウスの顔を形作る。
彼の作品を見る者にとっても「遅さ」が重要なのだ。見る側が時間の速度を落として、別の時空へと移動するのでなければ、マルコが見ているものを見る事は出来ない。
ラファエッラ・ペルナ
「油絵が他のどんな絵画とも異なるのは、題材になっているものの触感、きめ、光沢、質感を描き出すと云う特色だ。油絵は現実を手で触れる事が出来るものとして捉えるのだ。」とジョン・バーガー(John Berger)が名著『見る芸術』(Ways of Seeing)の中で述べている。ここでバーガーが「油絵」と云うのは、油と顔料とを混ぜたものを絵の具とする手法だけを意味するのではない。16世紀に始まって、印象派とキュービズムによって美学の転換がもたらされるまでの時代に、人々が人生と世界をどう捉えていたかを意味している。それを表現するのに油絵が最も適した手法だったのだ。
では現代において、物体の質感を最も的確に表現出来る手法は何かと言ったら、それは写真だと言えよう。そしてマルコ・スキファーノはこの事を知ってか、『絶滅、エクスティンクション』と題した連作において、写真と云うアートの持っている変装と錯覚の能力を際立たせる。写真は見る人に、撮影された物体がそこにあって、手で触れる事が出来るかのような錯覚を喚び起こすからだ。
同時に彼は極めてアンビヴァレントなやり方で、写真を用いて美術史を遡るかのように見える。写真が現実を証言する能力を最大限に利用して、彼は写真に虚構を証言させるのだ。現実を忠実に模倣するものを提示する、と云う意味ではバルト(Roland Barthes)を思わせ、バーガー的な言い方をすれば、「現実を引用する」つまり人工的な自然を記録するのだ。そこには入念な演出が施され、現実と虚構の境界、具体的物体とヴァーチャルなイメージとの境界がぼかされる。
デジタル技術の発展によって、写真は現実を記録するものだと云う既成概念が崩れ始めた。写真は客観的なものだと云う確信が揺らぎ始めた。マルコ・スキファーノのアートは、この知覚と概念の不安定状態から生じて来る。
彼の「静物画」の核心は、写真の中の自然がどこから来るものであるか、どんな手段で製造されたのかが直ぐには分からないところにある。既存するイメージを探しまわり、適切なものを取り込みながら、積み重ねていったものには違いないけれど、余りにも不動な雰囲気を醸しているがために、ほとんど非現実的に見え、デジタル技術で創造したのではないかと疑わせる。
例えば『ヒトコブラクダ』と題された作品では白子のヒトコブラクダが一体何を見ているのかと思わされ、これが実際に写真なのかと疑ってしまう。氷のように生気のない目をしたヒトコブラクダは自然と何の関係もないかのようだ。勿論それは本物のヒトコブラクダで、マルコがサーカスを廻って見つけ出した、正真正銘のラクダである。
動きを孕んだ静止の瞬間を捉えるには技巧が必要だ。バロックの静物画の最高のものの中では、イメージはシンボルの森となり、見る人を存在についての観照、人間の条件がいかに無常で儚いものであるかの瞑想に誘う。静物画でも「ヴァニタス」(vanitas)と呼ばれるジャンルは、全ての物体の上には死と再生の宿命が覆い被さっている事をテーマとした。例えば蝶々と柘榴がそれを象徴するためによく用いられた。
マルコ・スキファーノは白黒の抽象性よりも、色彩によって素材の質感を醸し出すのを好む。共感覚(シナスタジア)的な体験を刺激するために、花や食物が楽器や貴金属と接して捉えられ、視覚と臭覚、触覚や味覚や聴覚が同時に呼び覚まされる。
彼の作品の中ではイメージは映画のセットのように構成され、凝縮されたナレーション、ミクロな物語が演じられるかのようだ。動物や昆虫たちは生きたまま、又は剥製となって、腐敗して分解しかけた宇宙に住んでいる。
それは完成の一歩先の、絶滅に瀕した世界だ。形象を崇拝した挙げ句に物質が瓦解している。グリーナウェイ(Peter Greenaway)の映画のデカダンなマニエリズムと似た感性がそこにはある。グリーナウェイ自身の言葉を借りれば、「現実であるかのように構成された虚構を見ているのか、それとも虚構として提示された現実を見ているのか?」見分けがつかない状態である。
マルコ・スキファーノの『地球、アース』と題した連作でも、現実とシミュレーションの境界が追究されていた。そこでは18世紀の風景画のような自然が赤外線フィルムによって色調を変えられ、雪で覆われたかのように純粋さを剥き出しにする。それは空想の風景と云うよりも、現実よりもリアルな風景と言えるのではないか?
マルコ・トネッリ
静物画ならぬ静物写真。生きた動植物と停止したイメージはフランドル派の画家たちを思い出させる。黒の背景の前に果物、銀食器、グラスなど、多少贅沢とは云え見慣れた日常のオブジェが置かれる構図がピーター・クレース(Peter Claes)、ウィリアム・カーフ(Wilem Kalf)、アブラハム・フォン・ベイエレン (Abraham van Beyeren)などの作品にそっくりだ。
マルコ・スキファーノの写真は静物画の歴史を辿るかのように、古風なスタイルと伝統的な構図感覚でセットを構成したものだ。エキセントリックであると同時にクラシック、彼の選んだ道は少数派のものだ。と云うのは、見る側に多少の美術史の知識が要求されるからだ。
彼はこのようにして現実の一片を切り取り、一瞬の目映さを引き出すのだ。その目映さは取り合わせの奇妙さ、情緒不安定になるのを怖れずに、 光と影の対照が精密に計算され、究極のエレガンスが追究されているところから来る。
マルコ・スキファーノは写真の再生能力を存分に発揮させる技術を持っていると同時に、パーソナルなテーマと美にこだわり、それを具体化するためにセットをゼロから構築するアーティストである。と同時に、別の時代の画家たちが追究したものを現代のやり方で追究する画家であるとも言える。
が、何よりも私を感動させるのは、現代美術が美しいものや構成されたものを否定して、真実よりも誇張、観念よりもスペクタクルを求める風潮の中で、この若者が美術についての教養を尊敬しているところだ。その視線は見る者が俗世的な現実を超えるようにと いざなう。ただのパロディーにとどまるのを嫌い、スペクタクルな要素でさえも、エキセントリックな、パーソナルな、水晶のように澄んだイメージに高めようとしている。
彼のイメージは極めて具体的で、その感性は異教的だが、不思議とそれはルネッサンスの「受胎告知」や「救世主出現」のテーマに通じるものがある。しかし時代と云うものは、周期的に過去の時代と重なるものだとしたら、これは偶然の悪戯ではないようだ。
マルコ・スキファーノの感性は穏やかではない。時には美しいイメージを構成する作業で自分を宥めているようだが、時に彼が描き出すイメージは激しく動揺した波動を伝えて来る。彼の性格は複雑だ。彼のリサーチは常に針路が揺れている。自分自身の幽霊を自然の題材の中に探し求めているかのようだ。その幻想的でマニエリスティックな幽霊こそ、日常の自分よりもずっと真実に近い自分なのだと、彼は感じているのかも知れない。
敢えて言わせてもらえるならば、マルコ・スキファーノの「救世主出現」は黒い闇を切り裂いて、永遠の形、永遠の美が現れる事なのだろう。全てが無常で滅びて行く事を知っている、地上的な「永遠」が。